主に50代のころだが、「地底散歩」と称して洞窟や鍾乳洞をよく歩いた。東京の西の郊外に住むので、少し足をのばせば奥多摩や秩父である。地図に見るとおり、あちこちにホラ穴が口をあけている。個人所有のケースもあって、許可願を送ったところ、ご当主がぢきぢきに案内くださった。自分のものは自慢したくなるらしく、「東洋一」を連発されて閉口した。
洞窟への興味から、スロヴェニア南部のカルスト地帯を訪ねたことがある。可溶性の岩石より成り立つ地域で、20数キロに及ぶ洞窟が縦横にのびており、文字どおり「世界一」のスケールである。一般の人が入れるのは5キロのところまでで、それも案内人つき、途中までお伽列車のような鉄道で送ってもらえる。
学術調査隊の記録が残されていたが、深い闇をくぐって奥へ奥へと進んだところ、鍾乳石につつまれた湖があった。永遠の死の世界であって、生き物はいないと誰もが思った。ところがカンテラの明りに、体長10センチから30センチほどのイモリに似たものが照らし出された。ヘビのよう身をくねらせて水中を進む。前脚が2本、後脚が2本あって岩に這い上がる。アゴにヒラヒラしたものがついていて、針でつついたような2つの小さな目が見えた。明かりをあびると、うれしそうに踊るようなしぐさをした。
外敵をもたないので、ツノやキバといったものはなく、内臓そのものが露出したような体形で、光のかげんで青っぽく変化した。
学名がつけられてプロテウス・アングイヌス、「海の老人」といった意味がある。プロテウスはギリシア神話に出てくるが、変身の能力をもち、未来を予言する。
以来スロヴェニアの宝物で、記念貨幣になっている。こればかりはアメリカのドルにも、ユーロの経済力をもってしても、どうにもならない。小国の小さな生き物のもつ神秘的な生命力とくらべれば、ハイテクとコンピュータの生み出す驚異など、せいぜいディズニーランドのつくりものにすぎないのだ。
《ドイツ文学者・エッセイスト》
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