もくじ
緑風メニュー
<<No.19へ
特集号へ>>
 
緑風メニュー
  No.20  2012.6

●主な内容

  1. 自 然(田中清光)
  2. 時空二十年(加藤建亜)
  3. アルプのこと 山崎さん串田さん夫のことなど(塩谷マキ)
  4. 「遠い風景」(渡辺誠弥)
  5. 「串田孫一の仕事部屋」書斎・居間復元経過/完
  6. 企画展のお知らせ 尾崎喜八「アルプ」原稿資料展/坂本直行 スケッチブック展
  7. 次回企画展「田中良・チャリティ絵画展」―北辺を描く―
  8. 一年間の出来事 2011.7〜2012.6
  9. ご寄贈ありがとうございました
  10. おしらせ
  11. 編集後記

自 然   (田中 清光)

 一昨年の夏、これまで想いながらなかなか行けずにいた斜里へ旅をした。私にとって永年想いつづけていた北海道の旅であった。

 そこで出会った「自然」、それはこれまで私が体験してきた自然を、さらに拡げるものだった。若い頃信州に住み、北アルプスをはじめとする山々を歩き回った日々に私の内に刻み込まれた「自然」がある。それはずっしりと私の内に沈んでいる体験であるが、それとはまた違った、巨大な地勢を私の内に灼きつける知床から続く北の大地の広がり、またオホーツクの海の唸りなどを根源に叩き込まれた。その一端を『北方』と題した拙詩集に書きはしたが、北海道の自然のもつ根深さは、まだまだ到底表現するには至っていない。

 斜里でのひと月弱の幸運な滞在のなかで、北のアルプ美術館をゆっくり拝見することができた。館長の山崎猛さんが出会われた雑誌「アルプ」(串田孫一さん中心で300号まで刊行)が、北海道に住むこの方をとおして、これほど豊かな結実を生んでいたことは驚くべきことであり、また長年にわたり「アルプ」に書かせて頂いた私にとって、大きな歓びであった。

 それにつけても想うのは串田孫一さんとのご厚誼を頂いた六十年にも及ぶ歳月のことである。「自然」について考えるたびに串田先生とのさまざまな語らいや書かれた言葉を自分の中で反芻している。なかでも昭和28年に先生がはじめて信州上田に在った拙宅をお訪ね下さった時、小諸で途中下車されて書かれた次の詩のことが忘れられない。

 今日でも「自然」という言葉は世上に氾濫している。しかしこのような 謙虚さで自然に対き合っている心はどれほど見られるだろうか。「自然」は私達に対立するのではなく、私達に生命を、住む場所までを貸してくれる存在である。それを忘れてしまっては、私達の未来も創ることはできないと思うのである。北海道の自然にもこのような心で対いつづけたい。

《詩人》

 

 

時空二十年  (加藤 建亜)

 北のアルプ美術館創設二十年、それに続く串田孫一書斎復元の大業成就おめでとうございます。

 少年の正義少年の純潔少年の感傷ことごとく存しがたし もし一個の成人にしてそれを存してゐる者があるとすればそれはゐじんとするに足る――二十年まえ、アルプ美術館の開館式に臨んだときの私の胸中に真っ先に浮かんだのが容堂・山内豊信のこの言葉でした。

 山崎猛氏は若き日『アルプ』誌に出会い、「自然と芸術を通して人間性を高めよう」とアルプ精神に惹かれました。憧憬・理想、青白い感傷は成人するにつれて氏の灼熱の信条となって生そのものとなりました。

 春が近づくと、イタドリが乾いて軽やかな音に変わり、春を連れてくるようにも感じて心が浮き立った――イタドリの冬囲いに吹き寄せる風音を何と美しく見・聴いた少年か。数十年後、氏は、「風と波がゴーゴーと大きな音をたてる吹雪の日、ふっと音が消える瞬間があります。それが(流氷)到来の合図」と、おとなになってもその詩心はすこしも渝ることありませんでした。いや、美事に大成・開花しました。

 美術館・書斎は串田孫一に傾倒、心酔した氏の詩心の顕現にほかなりません。

 今も美術館のそばでそっと見守ってくれているような気がする――こう云う山崎氏の 懐 ( おも ) いはまっすぐ、串田先生に届いています。先生と山崎氏との間には魂の交感があるからそう云いきれるのです。亡き人は思われることでその人の魂は光り輝き、生きつづけて、思う人を見・守るのです。

 時流に 阿 (おもね) ず、わがこころざし一途に貫いてきた毅然の山崎氏を真似たい・学びたいとおもうばかりで二十年が経ってしまいました。

 山崎氏の夢の実現に、ささやかな一文が寄せられる幸いを感謝します。

《作家・現在月刊総合誌『公評』に小説「冬の花」を連載中》


大きく育った美術館の白樺の木

 

アルプのこと 山崎さん串田さん夫のことなど (塩谷マキ)

 夫岡部牧夫が高校時代から小屋番をした、霧ヶ峰のコロボックルと串田さんが近しく、また串田さんの上二人の息子さんが学校の山岳部の後輩で、早くから串田家に出入りしてまいんべるく会に入ったことなどから、牧夫は学生の 1962年にアルプに原稿がのり、'64年から編集委員になった。

 結婚して'67年の夏に、北海道旅行の途中で山崎さんを斜里にたずねた。山崎さんは前年に書店を退職して、自営の事務機器店を始めた大変なころで、テントと寝袋やらを貸してくれた。後日「あの頃は泊める部屋も宿屋を取るお金もなくて」と恐縮されたが、私達は手ぶらで行って海辺でキャンプ出来るなんて、こんな素敵なことはないとニコニコだった。町のスーパーにアザラシがかごに捕まっていて、夜中に逃がそうか、なんて本気に考えた。5万の地図は銃砲店に売っていてカワウソの毛皮も売っていた時代だった。まだ開拓地への簡易軌道が使われていた。

 牧夫は'87年に福音館書店から「日本」という、日本の6ケ所を定点観測した絵本を出したが、その1ケ所に斜里を選び、絵描きさんと何回も山崎さんのお世話になった。その時紹介された塩川さんが、庭に温泉が出て民宿でもやろうかとなり「しれとこくらぶ」という名付け親になった。その後、私達は信州に越したりで、やっと初めて北のアルプ美術館を訪ね「しれとこくらぶ」に泊ったのは、2004年だった。

 塩川さんが亡くなり、夫の遺稿集を持って7年ぶりに斜里を訪ねた。美術館のゲストハウスに泊めていただき、山崎さん大島さんとずいぶん沢山の話しをした。串田さんの書斎は懐かしく、同じ電気の傘を結婚祝いに下さったのが今頃わかった。自転車で走る斜里の町は、知っているような知らない町のようだった。

 夫の遺稿集を作るのでアルプを読み返し、昔の登山記行の面白さを見つけ、「明治の山旅」「小島鳥水」から「垂直と水平の道」、加藤泰安の「放浪のあしあと」は実に面白く、加藤さんらの親分今西錦司の「大興安嶺探検」や西堀栄三郎の「南極越冬記」、初見一雄の「すこし昔の話」も実に良い。


岡部牧夫・遺稿集より

泉靖一さんの「遙かな山なみ」もアルプから生まれた。アルプは今だからこそ古くさくないなぁと思う。最近アルプの執筆者名索引をつくって送って下さった方がいて、これでまたずいぶん便利になった。串田さんや牧夫が見たらもっと前にあったら、と悔しがると思う。

 


 

『遠い風景』   (渡辺 誠弥)

渡辺様

 「・・・昨日は絵馬を有り難うございました。貴兄のおかげで天宙の神に守られて元気に74才になり、美術館も20才になります。何かに守られる人は幸せ、そんな気がしております。しっかりと足場を固めて目標を達成したいと願う毎日です・・・」。

 上記一文は今年 1月15日付の山崎さんからの便りだ。文中の絵馬は、毎年伊勢神宮に初詣でしたおりにいただいたものをかれこれ20年近くお送りしているのだが、その20年の歳月のなかで山崎さんは夢をひとつひとつ形にしてきたのだ。

 「僕には夢がある」、と初めて聞かされたのは昭和52年の春だった。取材ノートには斜里までのその日の車窓からの風景を以下のように書き残してあった。

 「・・知床がアイヌ語で地の果てを意味するならば釧網線は地の果てを走る列車。そしてわたしの乗った客車はオハ6296型。昭和初期に造られて以来、これまでにどれだけの距離を走り続けてきたことか。さまざまな風景が刻み込まれた客車のこれが最後の勤めか。12両編成の貨客混成列車をひくディーゼル機関車は甲高い汽笛を長くひきながら、遠く裾を海に濡らす知床連山に向かって走り続けた。海明けからひと月あまり、砂浜に立てかけられたままの漁網は色褪せ、傷ついた浮き玉のうえにカラスが一羽、流氷の消えた海を見入っていた・・」と。

 斜里ははじめてだった。前年の夏東京から北見に転勤。オホーツクは失意の俳人臼田亜浪が「郭公や 何処まで行けば ひとに会う」と旅した地だった。

 その夜、宿のむかいの喫茶店で山崎さんは語った。「『アルプ』は本屋に奉公していた若いころの心のささえだった」と。そして、「僕には夢がある」と。それが『北のアルプ美術館』だった。35年前のことだ。


串田孫一「山と別れる峠」挿画より

 いま奈良にあって、遠くこの20年の山崎さんの姿を見ていると、『心如工画師 心造諸如来』という東大寺華厳唯心偈の風景とかさなってみえる。山崎さんにとって『如来』は、『北のアルプ美術館』だったのだ。

《元NHKアナウンサー・飛鳥藍染織館館長》

 

 

「串田孫一の仕事部屋」 書斎・居間復元経過/完

 この20号は特別な思いで書いている。歳月の早さに驚き、そして自分も後期高齢者の一歩手前である事を体力が教えてくれる。

 15号からお知らせしている『串田孫一の仕事部屋』書斎・居間の復元経過も無事に終わる事が出来ました。串田孫一の壮大な世界をどれだけ表現(復元)出来たかは分かりませんが、『書斎』については特に忠実にと試みました。私には余りに大きく、宇宙を感じさせられました。生涯の中で、最も清らかで荘厳な山頂に立てた気持ちでもありました。

 まだ、感動と感激の実感は沸きませんが、何時かこの為に生きて来た事を知らされることでしょう。この5年間、皆様方のお便りや賀状の一言にどれほど勇気を戴いたことか、胸が詰まるほど感謝の気持ちで一杯です。

 アルプの木々も成長し、こんもりとした林になり緑の風を爽やかに運んでくれています。今までのご支援ご厚情に衷心よりお礼を申し上げます。


展示室からみた書斎

串田孫一著書本が展示された廊下
 

展 示 室

 

企画展のお知らせ  2011年7月1日〜開催中です

尾崎 喜八〔おざききはち〕1892〜1974 「アルプ」原稿資料展

坂本 直行〔さかもとなおゆき〕1906〜1982 スケッチブック展

岡部 牧夫さんの展示コーナーを設置しました

  2010年12月6日に亡くなられた元アルプ編集委員・岡部牧夫さんが生前使用されていた書棚・文房具・資料等が、夫人の塩谷マキさんから寄贈されました。美術館の収蔵資料の保管に利用させていただきます。

 

 

次回企画展 『田中良・チャリティ絵画展』

 ― 北辺を描く ― 2012年10月17日〜28日予定

 〔田中 良〕 Tanaka Ryo プロフィール  

1923  茨城県桜川市(旧 真壁町 )に生まれる
1973  茨城県展委員・審査員(〜06)
1986  二科会評議員
2004  茨城県立美術館・北海道立各美術館作品収蔵
2009  しもだて美術館作品収蔵
2010  3回目紺綬褒章受章(1989.2005)
現 在  二科会常務理事 県美術展参与 

17・18日、田中良氏が滞在されます。収益金を知床の自然保護に寄付いたします。

 

 

一年間の出来事 季節の便り 2011.7〜2012.4

2011年
 8月12日 アルプの夕べ・上山美恵子 (ソプラノ歌手) 「夏の夜のひとときを…」
10月 2日 斜里岳初冠雪


第10回アルプの夕べ
上山美恵子コンサート

2012年
 1月21日 流氷接岸初日
 4月 5日 アルプの林でカラスの夫妻が巣作り
 4月 7日 海明け
 4月15日 クロッカス開花

 

■ご寄贈ありがとうございました(順不同・敬称略)

高澤光雄・矢部 登・大谷一良・高橋 清・菊地慶一・山田和弘・塩谷マキ
伊藤 毅・小林静江・清 雄策・吉村親義・池田 宏・岩崎敬一郎
木原安比古・高澤 戟E渡辺 陸・ 萩原直子・森 浩義・八木祥光
石田二三夫・田中清光・山室眞二・山本恭平・太田徹也・片山弘明
八巻力子・小野木三郎・大森一彦・澤田 眞・杉本光正・杉本清子・永野英昭
浜野泰一・萩生田浩・牛尾 孝・江さし草会・北海道銀行斜里支店
(株)株虫R書房・(株)創文社・東京新聞出版部・斜里町立知床博物館
網走市立美術館・美幌博物館・札幌芸術の森美術館・北海道立北方民族博物館
北海道立釧路芸術館・北海道立オホーツク流氷科学センター
▲▲▲ その他各地の美術館、博物館、記念館より資料や文献等をお送りいただきました。

アルプ基金−報告− 2011年6月1日〜2012年4月30日

959,790円となっております。
ご協力、ご支援に心より感謝とお礼を申し上げます。

■おしらせ

▲▲冬期間の閉館をお知らせします。2012年12月17日(月)〜2013年2月28日(木)まで閉館します。ただし、事前にお電話、インターネットでのメール連絡等、また、在宅時はインターフォンでお知らせいただければご案内が可能ですので、ご利用ください。

編集後記


2012.4.28  エゾエンゴサク

編集後記

▲この6月、開館20周年という北のアルプ美術館の歴史の今に立ち会えることに幸せを感じています。一つの大きな節目を迎え、自分も気持ちを新たに頑張りますので、今後ともよろしくお願いいたします。(上美谷)

▲「絆」という言葉に代表されるように、今までのあり方、これからの生き方を考えさせられる1年でした。美術館も沢山の方々の温かい励ましの中で、20周年を迎える事が出来ました。感謝申し上げます。これからも来館者の心に残るよう、小さなオアシスのように静かに語り継いでいきたいと思います。(大島)

 

  No.20 2012年6月発行(年1回)
 編 集:山崎 猛/大島千寿子/上美谷和代  題 字:横田ヒロ子
 発 行:北のアルプ美術館 〒099−4114 北海道斜里郡斜里町朝日町11−2
 TEL O152−23−4000 / FAX 0152-23−4007
 http://www.alp-museum.org  メールアドレス:mail@alp-museum.org

 

もくじ
緑風メニュー

<<No.19へ

特集号へ>>