1958年(昭和33年)、晩秋の礼文島は窮極の寂寥の美で私を魅了した。夕刻の船泊の村は、鰊大漁と書かれた古い木桶を転がして烈風が吹き抜け、家々は杉皮葺の屋根に細い煙突を立てて息を潜めていた。その中で一夜の宿のおかみさんは東京から独り旅の学生を暖かく迎え入れてくれた。ルンペンストーヴの薪の炎だけが明るかった。耳の奥にブラームスのクラリネット五重奏が流れては消えた。
▼後年、〈音楽の絵本〉でも礼文島をテーマに取り上げたことがある。そこで、(夜になると誰かクラリネットを吹いていた)串田先生の礼文島と私の礼文島が期せずして重なった。私は是非もう一度、礼文島を訪ねてみたかった。
そして昨年2012年6月、やっと念願の島を再訪した。54年前礼文島で撮った何枚かの写眞を携えて――。
▼島は当然のことながら全く変貌していた。杉皮葺に煙突の家々は、都会と変わらないモダンな姿となってカラフルな屋根を明るく光らせ、郵便局は洒落たコンクリートの外観にオレンジ色の旗を翻えしていた。かつての地の果て、スコトン岬は観光バスが押し寄せる観光スポットとなって大勢の人が群れていた。
▼私はスコトン岬から浜中、船泊を?て金田ノ岬まで、今は立派に舗装された海岸沿いの10粁ほどの道を感慨深く歩いた。途中出会った昆布漁師さんに持参した昔の写眞を見せると、「オレもこの(礼文丸)にはよく乗ったよ、ひどく揺れてさァ」と言う。船泊のスーパーの古老は(港で見送る頬かむりに角巻き姿の女性達)の写眞の中に昔の知人の顔を見付けては、「あ、これは誰さんだ!これは誰さんの亡くなったおふくろさんだ!」と懐かしがる。(荒れた海岸の砂利道を巫山戯ながら登校してくる6人の小学生)の写眞を見て、「こいつは今、漁協にいる奴だ、連れてってやるよ」と車で案内してくれた親切な人もいた。生憎くその(昔の小学生)は不在で会えなかったのが唯一の心残りではあったが――。ともあれ私の礼文島への半世紀の時空を超えた想いをやっと見届けたような旅になった。
▼島からの帰途、今回の旅のもう一つの主要テーマ「串田孫一の仕事部屋」を斜里に訪ねた。山崎館長御夫妻に壮大な事業の完成を心からお祝いし、(書斎の串田先生)にも、「また礼文島へ行って来ましたよ」と報告した。
《元東京エフエム制作》
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「音楽の絵本」のテーマ曲 ヴィヴァルディの室内協奏曲ニ長調RV94第2楽章 |
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