北のアルプ美術館の白樺林のなかに、「アルプ山荘」という来客用のロッジがある。2008年の夏の二カ月間、私はそのロッジにひとりで滞在させてもらった。出版をせかされている『アルプの時代』を書き進めるためである。山崎猛館長の好意によるもので、東京の暑さから逃れて、雑事にかきまわされぬ平穏な日々をすごすことができた。
食事は三度三度、館の本宅のほうに招かれて、千寿子夫人手作りのご馳走にあずかった。男のやもめ暮らしで自炊の日常をよぎなくされている私には、面倒な炊事の手間がかからないのがありがたかったし、くつろいだ家庭的な雰囲気もうれしかった。
頭がくたびれると、よく散歩がてらに裏手の丘にのぼりにでかけた。この丘は茂ったミズナラに包まれているが、こんな所にこんな丘が盛りあがっているのはおかしいから、もともとは砂丘だったのにちがいない。頂は、簡単な四阿(あずまや)のある展望台になっていて、近くのオホーツクの海が沖のほうまで見渡され、知床半島の山もその一部が見えた。
坂道の二ヵ所に滑降用のケーブルが設けられているので、私はこの丘を「アスレチック山」と呼んでいた。人に会うことなどめったになかったから、時どきそのケーブルにぶらさがって滑降をやった。もしだれかがそれを見たら、いいトシをして子供用のあそび施設で遊んでいるヘンな男がいるぞと思ったかもしれない。
滞在中に斜里神社のお祭りがあった。山崎館長は町の要人と挨拶をかわすのが煩わしいというので、千寿子さんと二人で出かけた。お祭りというのは、どこのそれも愉しい。斜里神社も、小さなこの町なみの賑やかさがあって、にこやかな老若男女の顔がそろっていた。仮設された舞台では、赤いドレスを着た、青江三奈ならぬ明江三奈という歌手が演歌を唄っていた。地面に敷かれた黄色いビニールシートにすわって聴き入る人たちにまじって、私もその明江三奈さんを聴いた。
通りには露店も出ていた。こまごまとしたP戸の細工物をならべた一つの店で、蛙のコレクションをしている女の友人のみやげに、豆つぶくらいのちっちゃな蛙を五つ買うと、人のいい顔をしたおやじさんが、一個オマケをつけてくれた。
滞在がおわりちかくなって、出版社の担当者の神長幹雄君が、日本山岳会図書委員の三好まき子女史と同道で斜里にやってきた。北のアルプ美術館の見学をかねて、私の執筆状態をさぐりに来たのかもしれない。が、神長君の運転するレンタカーで、知床峠を越えて宇登呂から羅臼を往復したり、摩周湖や屈斜路湖を見物に行ったりして、原稿のことなど忘れて三人とも大いに遊んだ。神長・三好ご両名ともロッジに同宿し、夜は遅くまでビールを飲みながら歓談に花を咲かせた。ふたりとも滅法アルコールに強く、付き合わされた私がどうやらビールの味をおぼえたのは、この時からだったといっていい。
《作家・元「アルプ」編集委員》
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