世界自然遺産「知床」を有する網走管内斜里町に「北のアルプ美術館」という小さな私設美術館があります。展示の中心は、今はなき山の月刊文芸誌『アルプ』。
山と真摯に向き合った作家や芸術家の作品に心酔し、高潔な自然讃歌の世界の紹介を続ける館長の山崎さんに同誌や知床の自然に対する熱い想いをうががいました。
■まず「北のアルプ美術館」の概要を説明していただけますか
かつて、東京の創文社が『アルプ』という月刊誌を発行していました。1958年3月に創刊し、25年後の1983年2月に300号で幕を閉じた「山の文芸誌」です。
掲載されていたのは、山を思索の場とする作家や詩人、画家、学者らの自然讃歌ともいえる随想や詩などの作品です。コースガイドや登山技術の解説、広告といったものはなく従来の山岳誌とは趣をまったく異にする小さな雑誌でしたが、誌面は高潔な雰囲気を醸し、自然、とりわけ山岳を愛する多くの読者の支持を集めていました。
編集の主軸は、当時、東京外国語大学教授だった哲学者で詩人、随筆家の串田孫一先生です。執筆陣には詩人の尾崎喜八、作家の深田久弥、ペン画家の辻まこと、版画家の畦地梅太郎、大谷一良ら多彩な面々が名を連ね、300号までの誌面を飾りました。600人を超える執筆者の中には、北海道在住だった坂本直行、更科源蔵らも含まれています。
当館は、その『アルプ』全号をはじめ、「アルプ作家」と呼ばれた執筆陣の生原稿、原画作品、著書、関連する資料などを集めて展示している私設の美術館です。執筆、編集者の皆さんのご協力をいただいて1992年6月に開館し、以来、入館無料での運営を続けています。
ほかに、藤田喬平のガラス工芸、一原有徳の版画など、私がこれまでの人生で出会った多くのアーティストの作品も同時に展示しています。
なぜ一個人がそれほどまでするのかとよく聞かれますが、『アルプ』は私の人生を豊かなものに変えてくれたかけがえのない書なのです。『アルプ』のおかげで足元の自然の素晴らしさに気付き、その感動を写真で伝えることがライフワークの一つにもなりました。この雑誌に出会わなければ、私の人生は今よりかなり味気ないものになっていたでしょう。
自然と芸術を通じ、人間性を高めようとしたのが『アルプ』です。その精神を伝える小さな美術館が、世界自然遺産の知床を有する斜里町の一角に存在することにも、大きな意義があると思うのです。
■山崎さんにとって『アルプ』はどういう存在だったのですか
私は道南の生まれですが、家が貧しかったこともあって、中学卒業と同時に遠戚が営んでいた斜里の書店の住み込み店員になりました。休みもほとんどない丁稚奉公にも似た生活の唯一の楽しみが読書で、店にある本をむさぼるように読みました。
そうした生活を5年ほど続け20歳になると、年季明けとでもいうのでしょうか、月に1日の休みと、いくらかの給料ももらえるようになりました。書店ですから本はいくらでも読めます。でも私は自分でお金を稼げるようになったら、手元にいつまでも置きたい本は無理をしてでも買おうと心に決めていて、最初の蔵書として買い求めたのが、串田先生の『若き日の山』、そして『山のパンセ』だったのです。
読む者の心にスーッと染みこんでくるような串田先生の文章が私は大好きでした。その先生が中心となり『アルプ』が創刊されたのも、ちょうどそのころで、当時としてはとても斬新で洗練されていたその雑誌に魅せられた私は、すぐに定期購読を始め、それから25年間、毎月、新しい号が届くのがなによりの楽しみになったのです。
『アルプ』は執筆者すべてが、山に代表される自然と真摯に向き合っていることが、ひしひしと伝わってくる文芸誌でした。個々の執筆者が自身の中にめいっぱい蓄積した自然観、人生観を誌面上で一気に解き放つようなところがあり、私はそうした感性あふれる表現ができる方たちに、あこがれにも似た思いを抱いていました。
この雑誌は、同時に世の中に20代の私がまだ知らずにいることが山ほどあることも教えてくれました。テントを揺さぶる風をカンタータのリズムにたとえた串田先生の文章に出会えば、それがどんな音楽なのかとレコードを探す。そうした知的好奇心、探求心をかき立ててくれる雑誌でもあったのです。
■山崎さんは写真家としても活躍されていますね
夏はリヤカー、冬はそりで本を配達する書店員にとって、オホーツク沿岸の厳しい自然は決してありがたいものではありませんでした。特に冬は流氷で舟が使えないため、知床のウトロまで教科書などを背負って運んだほどです。
当然、風景をじっくり眺めるゆとりなどなかったのですが、『アルプ』を読み続けるうちに、私は斜里岳や知床の山並み、オホーツク海の流氷などの美しさに気付き、いとおしくさえ感じるようになったのです。
その光景にカメラを向けるようになったのが20代後半です。撮影した写真を絵はがき代わりにして、『アルプ』の編集室に時候のあいさつ状などを送るうち、串田先生たちにも「北海道の片隅の熱心な読者」として知られるようになりました。
実はそれが縁で、知床の写真の依頼が舞い込み、『アルプ』に私の作品が掲載されたこともあるのです。まだ写真を始めて間もないころで、自分の写真が載った号を手にしてもなお信じられず、夢を見ているような気分だったことを覚えています。
以来、写真は私の大切な表現手段になりました。これまで大型写真集『氷海』、『日本の灯台』などを出版しているほか、今年10月にも『オホーツク―流氷の季節―』という写真集も出す予定です。
ただ、あくまで私が本業としてきたのは28歳の時に書店から独立して手がけた事務機器販売の事業で、それが順調だったからこそ、写真を続けることもできたのです。40代になったころには、商売も一定の成功を収めていましたから、多少なりとも地域の文化振興のお役に立とうと、自社の一角にギャラリーを開設したりもしました。斜里のような小さな町であっても、人々がさまざまな文化を享受し、心を豊かにできるような場所が必要だと考えたのです。
そのギャラリーでは、一昨年、街並み整備事業で建物が取り壊されるまでの25年間にわたり、通算335回もの展示をしました。地元の方たちの手づくり作品を並べたこともあれば、著名な作家の作品を紹介させていただいたことも少なくありません。そうした活動を通じて私が購入したり、寄贈を受けた作品も当美術館の大切なコレクションになっています。
今にして思えば、ギャラリーを開設しようとした発想の延長線上にあるのが現在の「北のアルプ美術館」で、私を育ててくれたこの土地への恩返しでもあると思っています。
■美術館開設までの経緯を教えてください
写真が『アルプ』に掲載されたことなどをきっかけに、私は串田先生と個人的にもお付き合いする間柄になっていて、300号での終刊も事前に知らされていました。
串田先生は「すべてのものに終わりがある。形だけ残しても、その精神が残らなければ意味がない。終わり方が大切なのだ」というようなことを私におっしゃいました。
大規模開発などによる自然破壊が顕著になりだしたころで、「山で思索する」といった作家や芸術家が少なくなってきていたのも終刊の一つの要因だったようです。時代の流れでもあったのですが、いざそれが現実となり、25年間、毎月読み続けてきた雑誌の新しい号が届かなくなると、私は心にぽっかり穴が空いたような気持ちになったのです。
このままでは、『アルプ』という文芸誌があったことさえ忘れられてしまう。誌面に宿っていた自然讃歌の世界をなんとか後の世に伝えることができないか。そうした思いが込み上げてきて、気がつけば、自分の手で美術館をつくろうと決意していたのです。
とはいえ、私は北海道の田舎町の商売人に過ぎません。関係者に資料提供などの協力をお願いして回ったものの、『アルプ』が金儲けに利用されるのではと心配した方も多かったようで、当初はなかなか同意が得られませんでした。
私は、営利が目的ではないこと、私財を使って建物などを整備し、入館無料での公開を予定していることなどを何度も説明して歩きました。そうした中、串田先生だけは、すぐに「ああ、いいよ」と言って段ボール箱いっぱいの原稿をポンと渡してくれたのです。あの時は本当にうれしかったですね。
私の真意が伝わるにつれ、『アルプ』の執筆、編集関係者から原稿、原画などが次第に寄贈、寄託されるようになり、最終的にその数は約5万点にも達しました。建物は、三井農林斜里事業所の木造2階建ての旧社員寮を買い取って山荘風に改装しました。敷地の庭には私自身の手でシラカバを植えることから始めるなど、コツコツと美術館の体裁を整え、ようやく開館できた時には終刊から10年近い歳月が流れていました。
■開館から16年。今では小さいながらも、ユニークな美術館として知られていますね
『アルプ』の名付け親は詩人の尾崎喜八さんで、スイスの高山の豊かな牧草地のことだそうです。創刊号で串田先生は「山から下って来たものが、荷を下ろして憩わずにはいられないこの豊饒な草原は、山が文学として、また芸術として、燃焼し結晶し歌となる場所でもあると思う」と書いています。
その「豊饒な草原」に集まった「アルプ作家」と呼ばれた方たちは当時すでに、経済の発展ばかり追求していくと、人間は一番大切なものをどこかに置き忘れてしまうのではないか、という共通の危機感を抱いていたのだと私は思います。
だからといって『アルプ』は、開発行為を声高に批判したり、「自然は大切だ」とストレートに主張するのではなく、山の素晴らしさや、そこで思索する喜びを丁寧にじっくり描き出して見せることで、「人間にとって一番大切なものはなにか」と問いかけ続けていたのです。
この美術館がオープンした際、「北海道の斜里の、この美術館のあるところから、病める地球が見事に癒されて行く爽かな緑が、先ず人々の心に蘇り、ひろがっていくことを願っている」というメッセージを串田先生は寄せてくださいました。
私はまさにこれこそが当館の使命で、訪れる人々に緑の草原の爽やかな風を感じていただける場所にしたいと思っていますし、実際「なぜか癒される美術館」とおっしゃる来館者の方も少なくありません。
■今後の抱負をお聞かせください
実は現在、ご遺族からの申し出を受けて、この美術館に串田先生のご自宅の書斎と居間を移築、再現する準備を進めています。私が以前、住宅に使っていた棟続きの部分を改築する予定で、開館20周年となる2012年の公開を目指しています。
串田先生は晩年、体調がすぐれず、結局、当館を訪れることがかなわないまま2005年に他界されました。気にかけてくださっていた知床の世界自然遺産登録が決まったのは、その数日後のことで、生きているうちにご報告できなかったことが残念でなりません。
その串田先生の仕事場である書斎と、「アルプ作家」も集ったであろう居間が、多くの蔵書や遺品とともに公開できるようになるのは、このうえない喜びです。当美術館にとって大きな節目となる事業で、私もすでに会社関係の仕事のほとんどを後進に譲り、その準備に専念しているところです。
私はこの美術館を私個人の所有物だとは思っていません。そろそろ次の世代に引き継いでいくことを考えなければなりませんが、ゆくゆくは町民が誇る地域の財産として、「友の会」のような方式で運営していただければと願っています。
私は今、この美術館にいるだけで幸せです。好きな作家の作品がそろい、その一つひとつが新たな感動を与えてくれる「桃源郷」です。私と同じような思いを抱く『アルプ』ファンは全国にいて、今も多くの方が訪れてくださいますし、最近は、ふらりと立ち寄り、熱心に見入っていく若い世代も増えてきました。
終刊から25年を経てもなお『アルプ』の自然讃歌は色あせることなく人の心を潤します。その世界に浸り、人間がもともと持っている自然を慈しむ心を呼び覚ましてみてください。当館を経由することで、斜里岳や知床の自然は、もっともっと素晴らしい表情を見せてくれると思いますよ。 |