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美術館の一つのすがた

横浜美術館学芸部長
武田厚

 一口に美術館といっても、その規模、内容、運営の目的などによって全く千差万別の姿をしている。
世界中の観光客を集める美術館もあれば、山中にひっそりとあって、時折訪れる愛好者の為に明かりをつけるような美術館もある。
いずれも来館する客にとっては大切な美術館である。

 確かに美術館のあるべき姿というものを常日頃考える必要はある。特に国立や公立の場合がそうである。美術館が果たすべき役割とそれを利用する側の権利とのやりとりがしばしばそこで見受けられる。
私もかつてはその論議に参加した。そして今もそのことに関心がなくはない。しかしよく考えてみると、論議の必然性を呼ぶものは、いつもその美術館の運営を支える財政源の公共性に因ることが多かった。
これは美術館運営の本質論にはならない。美術館は、それが一般に公開されるや否や、その時点で既に公共性を有する存在となるのである。
公共性とは、つまらない平等主義のことを意味しない。“何の為に”とか“どのように”とかいった運営者側の明確な意図に沿って公開されたものに対して、関心をもった利用者は、その範囲において大いに活用することができるのである。
どんな小さな美術館でも、どんな特種な美術館でも、我々人類の培った遺産の何かを、先々の未来の子孫に向けて保存し、伝える使命を担っているものであり、そして、今の時代の我々に対して、それがどんなものであるのかを提示してくれるものである。この意義ある機能に関していえば、公立とか私立とかいった言葉はまったくどうということのない事項なのである。

 北のアルプ美術館は山崎さんがずうっと抱いていた夢の実現である。着々と準備を進めて今日に至ったのである。この美術館は自然の美しさを伝えようとする美術館である。それは館名にはっきりと謳われている。自然と人間の親和がそこに語れている。雄大で厳粛でかつ優美な自然を背景とした斜里の町にいかにも相応しい。一人の人間が果たそうとする何かが、この美術館とその周辺に淡々と表現されているように思う。

 かつてフォンテーヌブローの森を訪ねた時、そこの一隅にあるバルビゾンの画家たちのアトリエをいくつか見てまわったことがある。ミレーの家もドービニーの家も小さな美術館になっていた。彼らのロマンチックな自然との交流が、当時のままのような雰囲気で周辺に残っていたのを思い出す。
北のアルプ美術館も、四季折々の自然に囲まれて、いつまでも、訪れる人々の心を和ます古里のような美術館であることを心から願っている。

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