もくじへ戻る

自然への
讃歌再び


大洞正典

 昭和33年3月、創文社から山の月刊誌『アルプ』が発刊された。
編集の主軸は当時東京外国語大学教授で山岳部長であった哲学者の串田孫一さんで、教え子の三宅修(編集)、大谷一良(表紙・カット)の両氏が創刊号から協力することになった。
「アルプ」とは、スイスの高山の雪線に近い豊かな牧草地の謂で、『アルプ』の誌名の名付親は串田さんの文学の師・尾崎喜八さんと云うことになっている。

 創刊号の「編集室から」の中で串田さんは「ここよりもなお高い山へと進み、山から下って来たものが、荷を下ろし憩わずにはいられないこの豊饒な草原は、山が文学として、また芸術として、燃焼し結晶し歌となる場所でもあると思う。(下線筆者)

従って高原逍遙のみに満足する趣味を悦んでいるものでもない」と宣言し、従来の山岳誌に欠けていた「山の芸術誌」としての『アルプ』の進路を示したのである。

 執筆者は、詩人の尾崎喜八をはじめ曽宮一念(洋画)、河田槙(随想)、畦地梅太郎(版画)、内田耕作(写真)、深田久弥(作家)、辻まこと(画文)、山口耀久(随想)、庄野英二(作家)、宇都宮貞子(山草)の諸氏のほか多士済々で、当時、山岳界で独立国の観を呈していた北海道でも坂本直行(画文)、更科源蔵(アイヌ文学)、一原有徳(版画)氏等々、随筆に、詩に、絵画に、写真に、と豊饒であった。

 しかし、やがて日本は高度成長の波に乗り、「文明」の名において自然破壊やリゾート化が急激に進むにしたがい、『アルプ』の志した自然讃歌の世界は次第に失われていった。そして遂に創刊から25年後の昭和58年2月、『アルプ』は一応の役割を果たし得たことを自認し、300号をもって終刊したのである。ちなみに『アルプ』に参加した執筆者は600余名であった。

 それから9年、思いがけない事が今、日本の北辺の地で実現しようとしている。
自然破壊を免れている数少ない土地、北海道の斜里町に、かつて『アルプ』の愛読者であった山崎猛氏が独力で、『アルプ』が創りあげて来た「山の芸術誌」の世界を『北のアルプ美術館』という形で再現し、訪れる人たちに山・自然への尊厳と愛を呼びかけようとしているのである。
『アルプ』の編集に関わってきた一人として慶びにたえない。

もくじへ戻る